播磨良一先生を偲んで
播磨良一先生を偲んで
本研究会は2001年4月に故播磨良一(はりま小児科)を世話人代表とし、日本外来小児科学会の下部組織として発会しました。播磨先生は令和6年12月9日にご逝去されました。享年83歳でした。
播磨先生から会の運営や研究手法などの多岐にわたるご指導を戴き、本研究会は発展しました。訃報に触れ、会員一同、悲しみに暮れております。
播磨先生のご功績を称え、追悼のページを設け、絹巻 宏先生と熊谷直樹先生からの追悼文を掲載いたします。
会員一同、生前の播磨先生のご厚情を決して忘れる事はありません。播磨先生の安らかな眠りを祈っております。
播磨良一先生を追悼する
2025年1月31日 絹巻 宏
近畿外来小児科学研究会の初代の世話人代表であった播磨良一(よしかず)先生が2024年12月9日に逝去されました。先生は研究会に集う皆のやさしい親父、あるいは面倒見の良い兄貴のような存在でした。いつも穏やかなお顔で皆に声をかけていらっしゃいました。その喪失感がいまだ去りません。心よりご冥福をお祈りいたします。
12月12日に神戸市の日本基督教団岡本教会で行われたお葬式の式次第に、先生のご略歴が以下のように記されていました。
「1941年1月8日、神戸で開業医の長男として生まれる。灘中学・高等学校を卒業。医師を目指し、阪大医学部を卒業し、小児科医となる。明和病院の小児科部長を経て、西宮で開業、今に至る。」
播磨先生のことをもっと知っていただきたく、私の知る範囲で少し補足します。先生は阪大小児科で麻疹ワクチンの予防効果の研究を行い、学位を取得されました。その後1977年から勤務された明和病院では川崎病の臨床研究に没頭し、冠動脈の超音波断層検査、TEGによる凝固能検査、不整脈、患児の母親の不安状態、虹彩炎、ステロイドパルス療法など、次々とテーマを見つけ精力的に発表されました。このたびの葬儀会場の入り口に、愛用の白衣、聴診器、ボールペン、かかりつけの子どもたちが描いた似顔絵などとともに、川崎富作先生から贈られた為書きが飾られていました。厚生省川崎病研究班会議などで交流が深かったのだと思います。
実は、私は1983年頃に播磨先生の発表をフロアから仰ぎ見たことがあります。冠動脈の超音波断層検査の発表でした。熱意と自信を込めて発表する若き日の颯爽としたお姿はとてもかっこよく、強く印象に残りました。このことを10数年後に外来小児科学研究会でお目にかかったときにお話ししたら、「あの頃は皆、川崎病に狂ってたんや」と笑っていらっしゃいました。個人的なことですが、中学・高校で私の一回り(6年)上の先輩であることもわかり、さらに親しくなりました。
先生は1988年に西宮市で開業されました。開業直前に徳丸實先生に誘われ、日本外来小児科学研究会の準備会に参加。1991年の研究会発足から長年にわたり研究会・学会の理事を務められました。おもに教育部会で活動され、なかでも「医学生のための小児科クリニック実習」に熱心に取り組まれました。1999年に会長として第9回年次集会「基調テーマ:みんなで考える、こどもの健康」を主催され、盛会かつ大成功に導かれました。懇親会で奥様とのダンスを披露され、大喝采でした。会を盛り上げようとの、先生らしいサービスでした。
その後しばらくして、播磨先生は年次集会の世話人たちを集め「これを機に近畿外来小児科学研究会を作ろう」と提案されました。近畿地区での研究発表や情報交換の場の設立です。全員が一も二もなく賛同し、近畿2府4県から24名の世話人を集め、代表は播磨先生、事務局は熊谷直樹先生の体制で、2001年4月に近畿外来小児科学研究会が発足しました。日本外来小児科学会の下部組織の地方会として、福岡(1996年)、関東(1997年)に次ぐもので、半年後に東海と東北の研究会が相次いで発足しました。播磨先生の発案がなければ、近畿は大きく出遅れるところでした。先生の機を見る力、仲間づくりの力に感謝しなければなりません。2007年3月まで代表を務められました。年2回の研究会では毎回、開会の挨拶で「皆さん、今日は日曜日、しかもこんな天気のいい日に遊びにも行かず、この研究会に参加していただき…」と仰っていた姿を懐かしく思い出します。
先生とは、亡くなる3か月前、高山での第33回年次集会で3日間ずっとご一緒し、親しくお話をしました。「孫が後を継いでくれるまで、仕事を続ける」と仰っていました。83歳での急逝は無念だったと思います。先生の後を追って現役を続けている私にとっては、心強いお手本でした。とても残念です。寂しいです。
播磨先生は誰にも優しく、誰とも親しく接する、まさに有徳の人でした。長い間お世話になり、本当にありがとうございました。どうか、日本外来小児科学会、近畿外来小児科学研究会、そこに集う私たちをにこやかに天上から見守ってください。
播磨良一先生を悼む
2025年2月13日 熊谷 直樹
誰からも好かれる穏やかな小児科医でした。
当研究会の親学会である日本外来小児科学会創始者の徳丸実先生とマニラの国際小児科学会で出会い、その後徳丸先生から外来小児科学研究会設立準備会に誘われ参加されました。日本外来小児科学会(当初は研究会)設立者のおひとりであり、当近畿外来小児科学研究会の初代の代表世話人として研究会を牽引されました。
研究会・学会の理事を長く務め、1999年に会長として第9回日本外来小児科学研究会年次集会を豊中市で主催され成功裏に終えました。後日、実行委員を務めた仲間に「近畿地区で気軽に臨床の経験や工夫を話し合え、近畿地区からプロダクトを発信できる会として近畿外来小児科学研究会を創ろう」と呼びかけ、2001年4月に神戸市で設立集会と第1回研究会を開きました。先生の広範な人脈とざっくばらんな人柄の故もあって、活動に積極的な世話人が多く集まり、また参加者から多くの演題を得、全国に発信し現在に至っていることはご承知の通りです。
神戸市の内科小児科医の長男として生まれ、大阪大学卒業後は紀南病院などに勤務、阪大病院時代に巨大動脈瘤の患者さんを受け持ったことがきっかけで川崎病に興味を持ち、西宮市の明和病院に勤務されてからも厚生省の川崎病研究班の一員として研究を続けられました。
1988年に同病院を退職し近くで開業されましたが、当時私が勤めていた病院と近いこともあって親しくさせていただき、学会などお留守の時に代理で診療を依頼されたこともありました。はりま小児科のスタッフの方々は皆「やさしい」「話しやすい」「怒られたことがない」と口を揃えて絶賛していたことを思い出します。
一方、彼はまた遊び(もちろん健康的な遊び)に長けていました。
明和病院勤務時代は院内にあった麻雀室で同僚と麻雀を楽しみ、ゴルフに興じ、開業後も鈴鹿サーキットで行われるモーターバイクレースに前夜から泊まり込みで観戦したこともしばしばありました。診療がお休みの木曜日の午後は、近くの友人たちと安くて美味しいお店を食べ歩き、まさに「よく学びよく遊ぶ」だけではなく「よく食べる」小児科医でもありました。
最近は奥様と食事や旅行にも出かけていましたが、1昨年の夏にはお孫さんを連れて、いやお孫さんに連れられて小笠原諸島の父島に行き、スキンダイビングを楽しまれたと伺い、いやはやなんとまぁ、いろんな楽しみ方を知っていると驚きました。
常々「他の医者だけではなく、いろんな人と繋がることが大切」と力説しておられましたが、研究、日常診療や遊びを通してそれを実践してこられました。
私にとっては外来小児科学会に誘っていただきホームケアガイドの編集委員に推薦していただいたこと、付け加えて言えばさまざまな楽しい会に誘っていただいたことなどなど、まさに外来診療、日常生活の師といえます。
2024年12月9日、急性硬膜下出血のため緊急手術を受けるも回復は叶わず、死去されました、何とも辛い。
合掌